劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語 (2013)

ずっと観たいと思っていたけれど、観れなかった作品。

 

ネタバレなしの感想から書く。

 

1. だまし絵のような、高度な叙述トリック

TV版も一種のだまし絵だった。仕込まれた毒を巧妙に隠し、じわじわと身体を蝕むような。蒼樹うめ原作+新房昭之監督=ひだまりスケッチという先入観を利用した毒、キュゥべえというマスコットに隠された毒、ネタバレになるからこれ以上は書かないが、TV版では「設定」を利用したトリック。劇場版は、それとはすこし異なる。この映画は、ミステリーに分類されても何ら不思議はない。

 

2. 単純な救済がテーマではない。救済の先がテーマ。

TV版では、登場人物(と視聴者も!)を散々な酷い目に遭わせておいて、救済がテーマだった。映画版では救済の先がテーマ。TV版のテーマの単純な延長線上ということではなく、完全にオーバーライドしている。作品づくりに詳しいわけではなくても、それが途方も無く難しいことだってことはわかる。

 

3. きっと何年後に観ても「異質な世界」を体験できるはず。

異世界モノが跋扈する近年であっても、まどマギの異質さは特級。イヌカレーによる異空間は言うまでもなく、街並みや室内の異質さも素晴らしい。

SFの謎技術は「数年後に見ると、その技術に到達していなくても古く見えてしまう」ことが多い。その当時に想像できる範囲内の技術をベースに描いてしまっているから。まどマギの場合、これには該当しない。オーパーツの類。

 

1回目は壮大さと深さに圧倒されて涙が出る余裕もなかったが、2回目が気が狂ったと思うくらいに涙が止まらなかった。その涙は悲しみでも喜びでもなくて、きっとこれが「感動」というものなのだろうと思った。

「感動」という言葉はよく使われる。それが死によるショックであったり、悲しみであったり、もしくは誰かが報われた喜びであったり、それらの感情を表現するために「感動」という言葉を使うことがほとんどだ。

この作品の「感動」はそれらとはまったく異なる。言葉ではうまく説明できない。大きなエネルギーに触れ、ただただ圧倒された結果、涙が止まらなくなる。言葉にするとそのようになるのだが、どんなに筆舌を尽くしても正しく伝えられないのだろう。

 

映画として、最高峰の作品のひとつではないだろうか。映画として、という枕詞は実写映画を含むという意味。

映像の美しさ、演技(アニメーションも!声も!)の素晴らしさ、最高峰と考える理由ではある。でもそちらは詳しくなくて説明できない。これは単なる知識不足だけど。

  

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以下、ネタバレ含む感想。

開始から30分間はいくつか(いくつも)の不吉な印象がありながらもハッピーな日常が描かれていて、こんな未来が……と思わずにいられないシーンが続く。

正しくは、その幸せなシーンも「どうせまた騙すための前置きでしょ」くらいに思って身構えていた。TV版で、あれだけ酷い目に遭わされたのだ。当然だ。

不吉さは、ベベ(シャルロッテ)のせいだと思っていた。でもそれこそが不吉さを直視させないための隠れ蓑だった。

2回目をみて、不吉さの正体を理解した。

じっくり時間をかけて変身シーンが描かれているが、ひとりだけ……の理由。時折、顔が判別できないモブが描かれている理由。キュゥべえが言葉を話さず、たびたび不気味なアップが描かれている理由。

映像による叙述トリックには、こんな表現があるのか!と叫びたくて仕方がなくなって興奮してこんな記事を書いている。

1回目、この叙述トリックにただただ圧倒されて、テーマそのものに頭がついてこなかった。これはミステリー小説好き特有の偏った感想とは思っている。

2回目、前述した通り、今度はテーマに圧倒された。

そして3回目、美樹さやか百江なぎさの使い魔たちの共闘するシーン、美樹さやか佐倉杏子が共闘するシーン、巴マミティロ・フィナーレに心を打たれた。3回も観てやっと感情が追いついてきた。こんなことは初めてだ。

ほむらも、まどかと同様に、至るところに存在する、偏在することになった。やや難しい概念だけれど、そのこともマミと杏子が気配を感じるシーンを描くことで、映像として表現されている。

エンドロールの最後、2人の少女が手をつないで走り去り、その光影がひとつに重なる。これも新しい宇宙の誕生の比喩に思える。

この映画は、暗喩の映像表現が散りばめられていて、たったの3回くらいでは気づけていないことがたくさんあるはず。

観て良かった。一生忘れることのできない、かけがえのない体験になった。