アクション映画を楽しめない、漫画やアニメの戦闘シーンを楽しめない、というか、楽しみ方がわからない、という人は一定数いると思う。
一方、名作には理由があると思っている。名作と呼ばれているからには何らかの理由があって、それを知りたくて食べてみるものの、どうにも口に合わなくて、自分の感性に問題があるのかと疑って苦しんでしまう。
「戦う」以外にも選択肢はいくらでもある。そして、戦う(暴力)という解決方法は最終手段であって、あらゆる選択肢の最後にあるものだし、それを「手段」として選ぶこと自体に危機感を覚える。
たとえば、「金がない」という問題があるとき、「収入を増やす」「支出を減らす」という選択肢がある。収入を増やすなら「働く時間を増やす」(副業をする)という選択肢が真っ先に浮かぶが、人によっては「借りる」という選択肢があるかも知れない。ましてや「奪う」「盗む」は選ばないし、最初から除外する。
たとえば、「国に資源がない」という問題があるとき、「輸入する」という選択肢がある。「侵攻する」という選択肢は選ばない。選べない。資源がないのに侵攻したら自滅するだけだから、短慮に過ぎる。
たとえば、将棋で相手が穴熊に囲おうとしていたら、先に動いて崩す手段がいくつか存在する。数手先を読んで、王手飛車や串刺しのような危険な筋を避けて、慎重に駒を運ぶ。
「戦う」という手段は最後の最後、危急存亡の一手であって、簡単な選択ではないし、戦いそのものよりも、その先にある世界を描くことのほうが難しい。
戦闘中は物語が進んでいるようで、何も進んでいない。
誰かが退場する。どちらかが勝利する。勝利したとて復興には時間がかかり、その後の世界から孤立する可能性がある。
戦いの数手先の世界でようやく物語が動く。
アクション映画や戦闘シーンを楽しめない理由を考えてみると、
- 選択肢として暴力を選ばなければならないほどの強い動機が必要。
- 暴力という最悪の手段を選んだ先まで、物語は停滞したまま動かない。
ということに尽きるように思う。
アクション映画は手段が目的化してしまっていて、「その先の世界」があっさりと描かれて終わることが多い。もちろん、そうではないものもあるが。
プロレスが好きなのは、その先の物語があるから。
そして、格闘技術そのものも楽しめる要素ではある。関節技をきめるまでの一連の流れるような動きは、経験があるからこそ楽しいと思えるのかもしれない。
だからこそ、素人のプロレスごっこの危うさ、練習が足りなくて技術の低いレスラーをみると、必要以上に、嫌悪感にも近い苦手意識を持ってしまう。
とはいえ、プロレスの試合そのものは、それほど重要には思っていない。ましてや、勝ち負け(星取り)は、どうでもいい。どちらが勝とうが負けようが物語は進む。
レスラーたちが描く「物語」を純粋に楽しんでいる。一種の群像劇のように。
プロレスが好きなのに、アクション映画を好きになることがほとんどないのはどうしてなのか、その矛盾を言語化してみると、こんな感じだった。
