このディベートは「ラップはダジャレではない」が圧倒的に有利。
それでも引き分け以上、もしかすると判定勝ちくらいに持っていくのは、さすが。
◆「ラップがダジャレではない」が有利な理由
では、どうして「ラップがダジャレではない」が有利なのか。
結論をいうと「押韻だけがラップではない」から。
このディベートは、ラップと押韻、押韻とダジャレの関係性が論点となる。
「ラップはダジャレである」は、ラップと押韻とダジャレをイコールで結ぶことが基本戦略。
この動画では、DOTAMA氏は「ラップは音楽表現」という4つ目の論点を持ち出してしまった。
論点を増やせば増やすほど相手に隙を与えてしまう。
そして、ひろゆき氏によるイコールで結ぶ戦略に絡め取られてしまっている。
◆「ラップがダジャレではない」の基本戦法
「ラップはダジャレではない」は、ラップと押韻とダジャレをイコールで結べなくしてしまえば良い。
ラップの表現技法のひとつとして押韻は存在する。そこはダジャレと通ずる。
そこは認めてOK。というか、認めないと、動画のように論理を崩される。
しかし、ラップは押韻だけではなく、様々な技法がある。
こだわり抜いた押韻が得意なMCもいれば、抑揚をつけたトーンやライムのメッセージ性が特徴的なMCもいる。
まったく押韻しないラップも存在する。日本語ラップの黎明期、たとえば初期のスチャダラパーは押韻がない。
押韻にこだわらずに強いパンチラインをフックとするスタイルは、現代でもたくさんある。THA BLUE HARB を聴けw
また、ダジャレは子音踏みじゃないと成立しないが、ラップの押韻は子音踏みだけではなく、母音踏みも韻として成立することの具体的な例を挙げて、ディベートをみている第三者にわかりやすいように伝えれば良い。
有名どころとして、ICE BAHN「越冬」から引用すると
この氷河期じゃ 能書きじゃなく ひねる脳がキー
「能書き」と「脳がキー」は子音踏みだからダジャレと通じる部分があるが、「氷河期」と「能書き」は母音踏みであり、ダジャレとしては通じない。
よって「ラップと押韻とダジャレはイコールで結べない」から「ラップはダジャレである」は成り立たない。証明終了。
勝ちにこだわるならば、「イコールで結べない」という論理を強調し、あとは相手に論理を崩されないように注意するだけで良い。
その勝ちに何があるのかよくわからないがw
◆具体例を挙げるときは主観を省く
具体例を挙げるときに「母音踏みが主流」のような余計なことをいわないほうが良い。
主流というのは、事実であったとしても証明が難しい「主観」になってしまうから、手痛い反撃を受けやすい。
後述するが、「主観」という攻撃手段は厄介。
相手の印象を操作して、個人の人格を批判する方法として使われる。
マスメディアが多用する、卑劣で品性のない、とても嫌いな攻撃手法だが、効果的でもある。
ここでは、子音踏みも母音踏みも押韻の一種であり、いくつもある「ラップの技法のひとつ」として淡々と列挙すべきである。
◆「ラップがダジャレである」の基本戦法
「ラップはダジャレである」の論者は、あの手この手で「ラップと押韻とダジャレをイコールで結ぶ」ことが基本戦法。
多くの場合は、喩え話を使った演繹法を使って論理を崩そうとしてくる。
喩え話を持ち出されたら、論理で崩すほうが良い。
相手が例え話を使ってくる場合は、帰納法に徹するのがセオリー。
つまり、ラップの具体的な表現であるライムとフローについて語って、「イコールで結べない」と結論づける。
しかし、「ラップがはダジャレである」が成り立たないといって、「ラップはダジャレではない」も成り立たないのも事実。
「ラップはダジャレである」側の攻め方は、押韻とダジャレの関係性を強調して、相手の論理を崩す。
ひろゆき氏は、この戦法に徹していた。強い。
◆喩え話は印象操作や人格批判の常套手段
動画とは立場が逆だが、喩え話を持ち出してきたら「話を逸らすな」で終わらせることができる。
しかし、ここでの攻撃者の意図は、論理の正当性だけではなく、印象操作も含むことに注意しなければならない。
頭ごなしな否定は、ディベートをみている第三者に悪印象を与えてしまう可能性がある。
ちなみに、「ラップがダジャレである」がどのような喩えを使うかというと、
犬は4本足の生物である。
4本足という特徴をもつ生物はすべて犬であるか?否、4本足の生物は他にもたくさんいる。
足がたりなければ犬ではないのか?否、足がたりない犬もいる。
ラップ=犬は4本足という特徴をもつ生物、ダジャレ=4本足という特徴をもつと仮定して、押韻しないラップがあるからといって、ラップはダジャレではないのか?
それはあなたの差別的な主観ではないのか?
このように、相手は差別的であると印象付けて、相手の人格を批判できる。
「話を逸らすな」で終わらせても良いけど、それが相手による印象操作の罠だから、簡単に崩せるならば崩してしまえば良い。
「犬」、「4本足という特徴」、「生物」、の3つの要素ではなく、「犬は4本足という特徴をもつ生物」のようにプラスしないと演繹が成り立っていない。
ラップ=犬、押韻=4本足という特徴、ダジャレ=生物に置き換えたら、
「押韻しないラップがあるからといって、ラップはダジャレではないのか?」
という主張がまったく成立しなくなってしまう。
前者は「生物全体」を対象にした話であり、後者は「犬」を対象とした話。
前提条件が違うから、その演繹は適用できない。
結局、前提条件をふわふわしたまま進めると、空中戦になって、口がうまいほうが勝つ。
それを防ぐには、前提条件を突き詰めて、自分の論理に有利なように誘導して、相手の論理を崩す。
前提条件を突き詰められると困る側は、印象操作によって、相手の負けを演出する。
でも実際はそんなことしても何も解決しないw
動画では、ひろゆき氏は相手の人格を批判していない、品性のある戦い方をしていたのが印象的だった。
◆感想
こういうディベートの技法って、いわゆる命題だとか推論だとか、
ギリシャ時代(もしかするとそれ以前)から延々と続けられてきたものだけど、
本質的な議題をディベートすると、話が逸れやすく、建設的な解決策には結びつきにくいから、
ディベートはエンターテインメントとして楽しむのが正解だなーと思った。
SFみたいに、楽しい方向に演繹を使うのは大好きだけど、
テレビの報道番組の印象操作テクニックみたいに、楽しくない方向の演繹は苦手。
報道番組もエンターテインメントなのはわかるけれど、実際に悪影響を与えてしまうのに、与えてしまった悪影響の責任を持つことができないし、責任を持とうさえしていない。
論理が破綻していることに気づかない人に、悪印象を与えられたらそれでいいのか・・・
ネガティブな演繹の悪用は、本当に嫌だ。
この動画で興味深かったのは、DOTAMA氏は「ダジャレではない」をほぼ間違いなく選択するから、ひろゆき氏は「ダジャレである」を選択することになるとわかっていて、もし相手がディベートが得意だった場合は、演繹を使っていただろうということ。
「あなたの感想ですよね?」や「なんかそういうデータあるんですか?」は、演繹法への対抗手段。つまり、帰納法。
今回、DOTAMA氏の「音楽表現」という悪手によって、そういう展開にはならなかったが、もしかすると、ひろゆき氏が演繹を使う展開もあったのかなと想像して、わくわくしてしまった。
いつか見てみたい。